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容姿のコンプレックス
- 私たちは美的感覚を持った生き物です。感性をもった生き物なのです。それは論理的な思考の裏側で、感覚的に「これが良い、これはイヤだ」という気持ちとして発現するものなのです。
私たちの社会は、私たち人間が「生まれたままの姿」でいることを「恥」としています。また、公衆の前でそのように裸体をさらけ出すことを「悪」としています。不道徳としています。私たちが他の動物と違って築きあげることができた「文明」というものは、私たちの論理的な部分と、「美的感覚」を融合させたものなのです。ただの住居に装飾を付ける、機能としては必要のないところを彩る。肌を隠すための洋服にこだわるということのすべてが、私たちの美的感覚がなせることなのです。
そのような美的感覚はあらゆるところに発揮されます。私たちが求めていることはさまざまありますが、まずは「自分」、そして接する「相手」に対してその感覚が及ぶのです。人が人を美しいと感じること、人が人を「好ましい」と感じる要素のなかに、その人の「容姿」が含まれていることは明白です。女性であれば、いくらでも化粧を施したり、着飾ったりすることで自分を昇華させることができるものです。
ただ、どのようにしても変えられないものがあります。それは自分の身体的な特徴です。顔の作り、体型は、カンタンには変えることができないのです。
太っている人がそれを「嫌だ」と感じて「痩せる」ということはいくらでもあるでしょう。体型を整えたいと思って努力することはいくらでもできるのです。自分の美的感覚にとって、自分の体型自体が我慢できないような時は、そのように自分を「改造」することはいくらでも可能です。ですが、どうしても変えられない顔のカタチ、骨格などはどうすることもできません。
一番コンプレックスになるのはそのように「努力」ではどうしようもない部分です。
そのような時、人が頼ることができる手段は「外科的処置」だけになります。外科的処置によって、自分を変えるということが、現代では可能なのです。顔の特定の部分がどうしても気に入らないから整形するということが、現代では可能なのです。
それを忌避する人もいます。そのような処置をした人に対して偏見の目を向ける人もいます。ですが、生まれ持った姿がどうしても気に入らなくて、それが苦痛である場合は、そのような手段によってそのストレスから解放されるということができるのです。それによって自分が幸せになれるのであれば、それはそれでいいのではないでしょうか。
それによって自分が納得できるのであれば、それを誰かが否定するだということはあってはいけないことなのです。コンプレックスを抱いた人の悩みを理解できるのは、同じコンプレックスを持っている人だけです。その辛さ、その痛みを否定するようなことがあってはいけません。
人の「チカラ」によって実現することができている「人を変える技術」、それは人生を変えることに等しいものなのです。
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