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「価値」、「感覚」は人によって違う
- 何かに対して「羨ましい」と感じたり、何かを「欲しい」と感じたりすることは人として正常な反応ではあります。ですが、それが度を越すとそれに固執したり、それが得られないときに落ち込んだりと、精神的にあまりよくない状態が発生することになります。
大切なことは「自分は自分」であるという「納得」です。自分は自分であり、他の誰とも違うということを理解することです。そして、もしかするとそれが「良い」と感じている人、それが達せられていないから「嫌だ」と感じている人は世の中に自分しかいないかもしれないということも疑うべきです。もしそうなのであれば、その「事」に対して悩んでいるのは自分だけで、そしてそのために「変だ」と感じているのも自分だけということになります。他の人は特段なにも感じていないということがあるかもしれません。
それは「損」なのではないでしょうか。自分しかそれに対して違和感を持っている人がいないのに、それが頭痛の種になるということは、意味があるのでしょうか。
それがなにかによって改善されるような問題なのであれば、それはそれでいいのです。改善される問題なのであれば、改善すればいいのです。それによって自分が納得できるのであれば、そうするべきでしょう。ですが、これまで述べてきたことと同様に「どうしようもない容姿の問題、身体的なこと」であれば、そんなことを気にする必要などはないということです。
誰も気にしていないこと、誰もそんな点に注視しないようなことに対して悩むのは「損」です。たとえ、一人でもそれが「変」だと感じた人がいたとしても、それが「すべて」ではないのです。
人の価値観というものは多岐に渡るもので、それを体系化することもできません。それを体系化して傾向をつけること自体がナンセンスです。人はそれぞれ自分の好みを持っているものです。その好みが合致する人同士が結びつくものなのです。それが相容れないのであれば、それはそれで良いのです。
人によっては、それは「大問題」であり、人によっては「どうでもいい」ことになるのです。
そしてそれも流動的です。そのような状態で、何を悩むというのでしょうか。どうしようもない問題で、しかもそんなことは誰も気にしないことに頭を悩ませてしまうことが、何の特になるというのでしょうか。実は、コンプレックスの大半がそのように、人から見ればなんでもないことなのです。それで心を痛め続ける、外に出るのがイヤになるということは、ナンセンスではないでしょうか。
これは心の持ちようの問題であり、カンタンに割り切れることではありません。ただ、自分が「こう在りたい」という理想とかけ離れてしまっているということに違いはありません。ですが、努力して解決することと、そうではないことの線引きはすべきです。どうしようもないことに時間をかけても仕方がないのです。
それを理解していれば、自分の中で諦めがつく部分と、改善しようとする部分に別けられるのではないでしょうか。
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