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人からどう見られているのかという意識
- 私たちの生きている「社会」というものは、「人と人の関わり」そのものであるといえるでしょう。人と人が関わることは素晴らしいことであり、私たちの発達したコミュニケーション能力が作り上げたものが「社会」です。
「社会」では「他者」がいるということが大前提になっています。どのようなモノも、どのようなシステムも、情報も、すべては「他の人」がいてはじめて成立することです。物質的なことだけではありません。心を癒やしたり、心を楽しませたりする「芸術」も、「他の人」がいるから成立することなのです。もしも世界に自分しか「人間」がいなかったら、そのような世界にあるものは「孤独」しかありません。私たちは「種」として尊厳を保ちながら、「群れ」として生きているのです。
群れとして生きる動物はたくさんいます。それは「生きるため」に必要なことだからであり、外敵から身を守るために役に立ったり、強い個体に守られて生きていけたりするための一種の方法です。ですが、人間はそのような「外敵」を「種」としては持たなくなりました。私たちの命を脅かすような動物は、地球上には存在しないといってもいいでしょう。それほどまでに私たちは発達することができました。それもすべて「知性」がなせることです。私たちの発達した「知性」は、「文明」という自然の動物では築くことができないものを創造したのです。
同時に発達したのはその「精神性」です。私たちは「心」を持っています。他の動物が心を持っていないかというと、それはわかりません。ですが、私たちは明らかに人と人が心を通わせることで交流を深め、絆を深め、新しい家族として成立したり、伴侶とともに子を育て、次世代にさまざまなことを託したりしてきました。子孫を反映させることは動物としてごく当たり前なことではあるのですが、私たちの精神性は「ただ子を残す」ということだけではなく、そこに大切な「何か」を見出しているのです。
私たちのそのような豊かな精神性、高度なコミュニケーション能力、人を理解するチカラ自体は、時に私たちを苦しめることになるのです。そのひとつが「コンプレックス」です。私たちが生きている社会、そもそも「社会」という枠組み自体が「他人がいること」を前提としたものです。そのため、「人に見られる」、「人を見る」ということは「当たり前」なのです。
ただ、そのように人と接する中で「自分だけ何かが違う」という気持ちが、思わぬ劣等感を生むことがあります。実はそのようなことは気にする必要もないのに、気になって仕方がないということです。そのような気持ちが生まれるのも「社会」があるからなのですが、私たちはその「社会」の中から逸脱して生きることはできません。ですから、そのような劣等感のようなものは都度乗り越えていかなければ、社会に参画することもできなくなってしまうおそれもあるのです。
人と接すること、人に自分を伝えること、「違い」を「個性」として前向きに捉えることが、まずは大切なのではないでしょうか。
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